15年前、主人公の「わたし」は国際子ども図書館を取材した帰り、上野公園の噴水の見えるベンチで「喜和子」さんと出会う。当時はまだ小説家ではなくフリーライターだったのに、つい「物書きです」と言ってしまったことから、喜和子さんに頼まれて上野の図書館について小説を書くことになった。
上野の図書館、つまり現在の国際子ども図書館は、かつて帝国図書館と呼ばれていた。西洋のビブリオテーキを理想に掲げる明治維新政府が壮大な構想を練り、文庫から東京書籍館、そして東京府書籍(しょじゃく)館となり、さらにそれが東京図書館となって、明治39年には帝国図書館と名称が変わる。
そんな図書館の歴史を織り込みながら、「わたし」と喜和子さん、そして喜和子さんの2人の元恋人や喜和子さんの同居人などが繰り広げる面白可笑しくもほろりとする物語。
奇抜な服装を着て自由奔放な言動の喜和子さんが、幼い頃親元を離れて見知らぬ男性2人としばらく暮らしたことや、結婚した相手が「昔気質の男」(男尊女卑を地で行く)で苦労の連続だったこと、抑圧から自分を解放するために婚家を出たことなどが、次第に明かされていく。
それと平行するように図書館の歩みが語られているが、これが刺激的な面白さ。図書館の視点で書かれた歴史だからだ。なんという豊かな想像力!発想の転換!明治、大正、昭和の時代を目撃し、何度も予算を削られ、いくつもの戦争を経験しながらも、たくましく生き抜いた図書館が、魅惑的で愛おしくなる。
喜和子さんが主演女優賞に輝くとしたら、帝国図書館には主演男優賞を贈りたい。(何故、女優ではなく男優か、というと、図書館は樋口一葉に恋をしたから。このエピソードも面白い。)
図書館とペア受賞をした喜和子さんの一生からも目が離せない。小説家となった「わたし」は、喜和子さんを「豊かな内面世界」の持ち主だと信じている。そして、「わたし」が喜和子さんについて語るこの一節が、喜和子さんの存在を浮き彫りにする。
『だから喜和子さんは娘を十八まで育ててから、一人で東京に出てきて、図書館に通って、自分で自分を育て直したんじゃないかって。記憶の断片をたどって、自分が自分であるために必要な物語を、作ろうとしたんじゃないかって。』(394ページ)
自分が自分であるために。ごく当たり前のことのようで、実はこれがなかなか難しい。そんなことを改めて考えさせられる。
喜和子さんの「自分が自分であるために必要な物語」は、完成したのだろうか。
その答が知りたい人は、是非読んでみてください。『夢見る帝国図書館』を。
★★★★★★★
この小説を読み終えた翌日、タイミングよく上野へ行く用事が出来たので、小説の舞台となった上野公園と国際子ども図書館に寄ってみた。