Set me free!

山・海・草花・亀・読書・音楽・創作が好き

異なる世界観に近づく努力

図書館で借りた本の中には、あっという間に完読するものもあれば、どうやっても読了できず、諦めて返却するものもある。

 

ムーミン谷」というキーワードに惹かれて借りた『ミンネのかけら ムーミン谷へとつづく道』(冨原眞弓著)も、危うく読み終わらないまま返却するところだった。第I章が著者のフランス留学時代の話で内容が専門的であったため(フランスの哲学者の話など)、なかなか先に進めない。背景知識があれば興味深く読めたかもしれないけれど、哲学とは無縁なわたしなので・・・(著者には申し訳ないが)。

 

 

ところが、第II章の、世界一周旅行をするスウェーデンバックパッカーたちが登場するあたりから面白くなり、あとは一気読み!わたしにとってのクライマックスは、第III章(最終章)の、著者がトーヴェ・ヤンソンの小説を翻訳する決意をし、ヤンソンに会って話を聞いたり、1994年にフィンランドで開かれた『トーヴェ・ヤンソン国際会議』に出席したときのエピソードだ。

 

その話をする前に、わたしがヤンソンに出会った(といっても実際にではなく、アニメや児童書を通じて)時の話をしておきたい。50+α年前、小学生だったわたしは当時テレビで放映されたムーミンのアニメに夢中になり、本も読んでみたいと思って3~4巻買って読んだ。その時、「あれ?」と思ったのを今でも覚えている。

 

児童書に出てくるムーミン一家や仲間たちの印象が、アニメのと一致しないのである。登場人物の性格や物語の展開が、アニメと本とでは違うのだ。アニメではみんな良い子、夢と希望を胸に抱いて楽しく暮らそう、というイメージなのに(ひねくれもののミーはちょっと違うが)、児童書に描かれた彼らは、どこか皮肉っぽく、ずけずけ物を言って相手を嫌な気分にさせたりと容赦ない。物語にも突き放したような現実の厳しさが反映されていたりして、両者の違いに戸惑ったのだった。

 

大学生になってから、今度は英語に翻訳された本を数冊読んでみた。もしかしたら言語によって印象が変わるかも?と思ったので。ところが、英語版を読んでも、あの容赦なさ、現実の厳しさ、皮肉っぽさには変わりがなく、原書に忠実なのは日本語版も同じだったと再認識する。そして、ヤンソンのオリジナルの世界と違うのは、アニメのほうなのか!と気づいたのだった。

 

でも何故?

 

そのもやもやをすっきり解決してくれたのが、この『ミンネのかけら ムーミン谷へとつづく道』の第III章である。ちなみに、ミンネというのはスウェーデン語で「記憶」という意味だそう。

 

1994年8月、フィンランドタンペレで開かれた「トーヴェ・ヤンソン国際会議」において、一人の新聞記者がヤンソンにこう質問した。

 

「最近、日本製のアニメが世界的に大人気だが、原作との絵やプロットの違いを指摘し、違和感をいだくひともいる。原作者としてそれをどう思うか」(215ページ)

 

これに対してヤンソンは、真顔になってこう答えた。

 

「あのアニメにはわたしも弟のラルスも、それからプロデューサーのデニス・リヴソンもかかわっています。そもそも日本のアニメはよくできていますよ。日本人は心をこめて作ってくれた。わたしはそれを評価したい。

彼らはわたしたちの世界観に近づく努力をしてくれた。わたしたちも彼らの世界観に近づく努力をするべきではありませんか?それでも違いが残るとしたら、それは悪いことではない。

わたしたち(言語少数派のスウェーデン語系)はフィンランドのなかでなんでもいっしょ、おとなりといっしょということにこだわる傾向があります。自分たちでわざわざ息苦しくしているのです。

この呪縛から解放されるためにも、自分たちと違う地球の向こう側の世界の存在はたいせつなのです。」(215~216ページ)

 

ここを読んで、わたしの長年の疑問がようやく解明した。そうなのか!ヤンソンは日本の世界観に沿って作られたムーミンのアニメに理解を示し、受け入れていたのか!

 

そして、「自分たちと違う地球の向こう側の世界の存在はたいせつです。」というメッセージにはっとさせられた。他国の世界観は表面的には分かったようでも完全には理解しきれない。でも、違うからこそ、その存在は大切。世の中は均一なもので出来ているのではなく、多様性に満ちたものだから。

 

諦めず最後まで読んで良かった、という一冊である。

 

おまけ:

お菓子のパッケージに描かれたムーミン谷の仲間たちは、ヤンソンの原画そのものだ。ムーミンスナフキンの表情がなんとも愉快で気に入っている。ミーもミーそのもので良い感じ。

去年買ったシュガーバターの木のパッケージ。可愛いので捨てられない。